1991年3月11日、まだ幼かった息子の手を引いて、Gloriaは南米チリからやって来た。ぼくがバックパックを担いで海外を歩いていた頃、チリの港町バルパライソで出会い、気が付くと一緒に暮らしていた。じきに旅の資金が尽き、ぼくは一足先に帰国。札幌に仕事と家を見つけて待っていた。Gloriaと息子が札幌に着いた日は、牡丹雪が降っていた。
札幌で18年暮らした後、2009年にぼくの生まれ故郷・根室に引っ越してきた。当時、ぼくは道庁に勤めていた。堀達也知事から中央官僚出身の知事に代わり、もろもろ嫌気がさして転勤を願い出たのだった。口には出さなかったけれど、Gloriaはきっと不満だったと思う。友達もできて、何もかもそろっている快適な札幌から、だれも知り合いがいない道東の一番端っこの町に移るのだから、それも当然だっただろう。
当時はまだ根室支庁と言っていた時代で、地域振興部長として北方領土対策も所管業務の1つだった。ビザなし交流や北方墓参、元島民の援護、地域振興などやることはたくさんあった。最初は、仕事でやっていたが、そのうちぼくの中で何かが目覚めた。母は国後島で生まれ、15歳の時にソ連兵に追われて島を脱出した。ぼくは元島民2世だった。
ごくごく自然に、Gloriaはビザなし交流で北方四島からやって来るロシア人の受け入れ事業に参加するようになる。「ビザなしサポーターズたんぽぽ」というグループに加わり、ボランティアとしてビザなし交流を応援した。根室港はビザなし交流、自由訪問、北方墓参と3つあるビザなし渡航の玄関口で、4月から10月にかけて週3~4日、船の出入りがあった。Gloriaはほぼすべての見送り、出迎えを行った。アニメ「ジョバンニの島」をデサインした旗を持って、雨の日も風の強い日も岸壁に立っていた。
Gloriaがビザなし交流に関わるようになって、劇的に変わったことがある。感情表現が豊かな南米育ちのGloriaはロシア人を出迎える際に、思いっきりハグをする。それが男性でも女性でも同じで、親しみを目いっぱい表現する。やがて彼女の周りではハグが当たり前になっていった。

ロシア人の受け入れ事業のプログラムの中に、日本側がロシア人を自宅に招いて食事を提供しながら交流を深めるホームビジットがある。Gloriaは四島から来るロシア人を年に5~6回自宅に招いた。ロシア語通訳さんたちとの打ち上げを含めると10回以上、ホームパーティを開いた。
料理はデザートまですべて手作り。四島交流用に特別料理も考案した。ざっくり言うと、くりぬいた大根にホタテ、花咲ガニ、エビを詰めて餡をかけたものだ。スペイン語のChile(チレ=チリ)のチ、Japon(ハポン=日本)のハ、Rusia(ルゥシア=ロシア)のルを取って「チ・ハ・ル」と、彼女は名付けた。やがて、「根室に行ったら、Gloriaの家に行きたい」と言うロシア人が増えていった。
Gloriaが四島を訪問したのも、ロシア人を受け入れたのも2019年が最後となった。コロナ禍とロシアによるウクライナ侵攻ですべてが止まってしまった。Gloriaは根室での生きがいであり、大きな喜びだった大切なものを奪われてしまった。
根室市の花「ユキワリコザクラ」は「雪割小桜」と書く。この和名を与えたのはNHKの朝ドラの主人公にもなった植物学者の牧野富太郎である。根室や千島列島の遅い春に淡い藤色の小さな花を咲かせる。道端に、ひっそりと控えめに–。
長い、長い冬を越えて、凍りついた雪の下から花を咲かせる「ユキワリコザクラ」のように、いつかまた根室の港に笑顔の花が咲き、互いにハグし合う日常が戻ることを願う。
※「ボストーク60号」(NPO法人ロシア極東研機関誌)2025年1月15日号に寄稿した原稿をもとにしています。