北方領土・水晶島 血塗られた惨劇 国境警備隊6人射殺事件

知られざる歴史・秘話
北方領土・水晶島から納沙布岬を望む

(1994年) 3月8日、南クリル諸島(北方領土)のタンフィリエフ島(歯舞群島・水晶島、納沙布岬から7km)の国境警備隊前哨基地で、当直の兵士らが就寝中の同僚の兵士に発砲し、6人が死亡、3人が負傷した。その後、犯人たちは駆け付けたMI-8ヘリコプターを撃墜するなど発砲を続けたが、国後島から派遣された空挺部隊によって拘留された。

コメルサント特派員が軍事検察庁から聞いたところによると、当直任務中だった兵士2人が兵舎の寝室に侵入し、発砲。兵士6人をその場で殺害、3人を負傷させたという。その後、犯人たち国境駐屯地のアクセス困難な場所の一つに逃走し、数時間にわたって仲間の兵士たちに向けて銃撃し続けた。2人は部隊指揮官の要請で派遣されたヘリコプターを撃墜した。乗組員に重傷者はいなかった。

タス通信は、法執行機関の話として、基地内でのいじめが原因だと報じた。ロシア国境警備隊本部報道官は、他の軍では兵士が何らかの理由で仲間を射殺する事件が数多く起きているものの、国境警備隊でこのような事件が起きたのは初めてだと強調した。(コメルサント1994/3/10)

クリルの物語。タンフィリエフ島(水晶島)での血みどろの大虐殺

まるでマーフィーの法則のように、ユジノクリリスク(南クリル地区=国後島、色丹島、歯舞群島)の多くの祝日は悪天候に見舞われた。まるで天のオフィスで作成されたスケジュールに従っているかのように、暦の「赤い日」の前夜には、広大な太平洋からサイクロンが国後島に飛んでくる。ハリケーンのような強風は、季節に応じて、常に豪雨または強力な積雪を伴っていた。1か月分の降水量が1日で降ることも珍しくなかった。しかし、1994年3月8日は、すべての国後島の住民にとって嬉しい例外となり、晴れて夏のような暖かい天気に恵まれた。

島民は国際女性デーを騒々しく、楽しく祝った。しかし、昼食後、島中に急速に広まっていた恐ろしい噂のために、多くの人が祝祭気分を失った。南クリル国境警備隊の本部があるゴリャチイ・プリャジ村(国後島・瀬石)で戒厳令が布告されたと伝えられた。民間人の立ち入りは禁止され、軍の町では全職員に戦闘用武器が支給された。部隊の当直将校は電話に出ず、部隊本部の電話はつながらなかった。

一方、噂は広まった。ある「口コミ」によると、日本軍が午前中に小クリル列島(色丹島と歯舞群島)の島の一つにある前哨基地を攻撃し、そこにいた全員を殺害した。別の情報によると、国境警備隊の間で武器を使った衝突があり、数人の警備隊員が死亡した。血みどろの虐殺を行った者たちは軍用ヘリコプターMI-8を撃墜した。乗組員の消息は不明で、その後巡視船に乗って犯罪の処罰から逃れるために犯人たちは日本に向かった…。

島は文字通りこの話題でもちきりだった。国境警備隊の司令部は依然として沈黙を守っていた。信頼できる情報がないため、人々は不安に陥っていた。なぜなら、島の前哨基地には国後島出身の若者が多く勤務していたからだ。彼らの両親、親戚、友人が心配し、懸念するのも無理はなかった。そして夕方になって初めて、何が起こったのか、どの前哨基地で起こったのかが分かった。このニュースは国後島と色丹島の住民に衝撃を与えた。

タンフィリエフ島(歯舞群島・水晶島)は、千島列島の中で日本の北海道に最も近い島である。天気が良ければ、望遠鏡がなくても日本の海岸がはっきりと見える。7キロメートルしか離れていない納沙布岬には、いわゆる「北方領土」の有名な建物と、24 時間警告灯が光る「望郷の塔」を見ることができる。

水晶島は小さい。長さ6.4km、幅4.5kmで、ほぼ平坦。いくつかの丘があり、最も高い丘の高さは12メートル。木は1本もなく、背の低い茂みがあるだけだ。茂みの中にある塹壕が、かつての日本軍の存在を思い起こさせる。

タンフィリエフという島の名前は1946 年、ロシアの地理学者であるオデッサのノヴォロシースク大学の教授だったガブリエル・イワノビッチ・タンフィリエフ (1857-1928) に敬意を表して命名された。

1946 年、水晶島に第 1 駐屯地が組織された。海岸に近い低地に、隊員用の木造兵舎が建設された。時が経つにつれ、木造の建物は荒廃し、新しい駐屯地を建設することが決定された。輸送の問題にもかかわらず、1960 年代には、島にさまざまな建物の複合施設が建設され、国境警備隊が勤務し、休息するための快適な環境が整った。メインの建物は、いわゆる「北極」仕様で建設された。そこにはほぼあらゆるものが揃っていた。ジム、寝室、ロッカールーム、乾燥機、キッチン、パン屋、食堂、ランドリー、オフィス、娯楽室、ラジオ局、プール付きの浴場など。そして将校のために家が建てられた。前哨基地には温室、牛、豚、鶏の付属農場まであった。

ソ連時代、司令部は遠隔地にある国境警備隊が本土から切り離されていると感じないようにあらゆることをした。郵便、新作映画、本、食料、一言で言えば、通常の生活に必要なあらゆるものがヘリコプターや船で島に定期的に届けられた。前哨基地にはテレビもあった。

前哨基地第 1 号は当然ながら国境派遣隊の中でも最高の基地の 1 つと考えられていた。そこでの勤務は容易ではなく、他の基地よりもさらに困難だった。そして何よりも、この小さな平らな島を吹き抜ける寒くて湿った気候と強風のせいで。まれに訪れる暖かく晴れた日は、水晶島に住むすべての人にとって本当の休日となった。1992 年以前は、この島で一定期間勤務したすべての指揮官と政治将校は、みな昇進して島を去った。

「偉大で強大な」ソ連の崩壊以来、多くのことが変わった。しかし、クリル国境警備隊は、ロシアと呼ばれる新しい国の他のすべての住民と同様に、新しいシステム、異なるシンボルと価値観を持つ国で暮らし始めた。以前はエリート国境警備隊として、厳しい選抜があったが、1991 年以降は、必要な数の兵士を確保するためだけに、全員を順番に採用し始めた。軍の登録および入隊事務所は、徴兵された兵士の経歴、道徳的性格、さらには健康状態に注意を払わなくなった。彼らの仕事の主なルールは、どんな犠牲を払ってでも徴兵計画を遂行することとなった。裕福な親を持つ者だけが、兵役を「逃れる」ことができた。その結果、国境警備隊はロシア軍全体と同様に労働者と農民の軍団に変貌した。千島列島では、それまでになかった地元の兵士が国境警備に召集されるようになった。

1994年、第1前哨基地はN.ソロマキン大尉が指揮を執った。彼は唯一の将校だった。8か月前、人員教育担当の副官が長期出張に派遣され、代わりの将校は派遣されていなかった。当時、国境分遣隊は将校が著しく不足していた。将校の中にはロシアを去った者もいたし、サハリンや本土のどこかで無料のアパートを手に入れる望みを奪われて辞職した者もいた。そのため、大尉は長い間、一人で軍の指揮を執らなければならなかった。悲劇的な事件が起こる前、彼はすでに6年半、将来の見通しもなく水晶島の前哨基地を指揮していた。彼は出産を控えていた妻をモスクワの親戚の元に送らなければならなかった。

1988年、私は彼と会って話をする機会があった。彼がこの遠い島で任務を始めたばかりの頃だ。当時、N.ソロマキンはまだ「新米」将校だったが、将来に向けて大きな計画を立て、出世して将軍になることを夢見ていた。しかし、ソ連の崩壊とその後の出来事が原因で、それはうまくいかなかった。私は彼に二度と会うことはなかった。しかし、3月8日以降、国後島・瀬石にある本部の同僚たちは、彼の性格は過去2年間で劇的に変化し、島での長期滞在と、別の基地への転属願いに対する司令部の否定的な反応によって、精神的に落ち込んでいたと話していた。

ある時点で、ソロマキンは部下を完全にコントロールできなくなった。そして「じいさん」と呼ばれた古参の隊員たちは、前哨基地で独自の秩序を強制し始めた。これは軍隊では「いじめ」と呼ばれている。それが 1994 年 3 月 8 日に起こった悲劇のもとになった。

影のリーダーは、「じいさん」軍曹のN.アルヒポフだった。客観性のために言っておくと、水晶島での「いじめ」は、ロシアの多くの軍部隊ほど醜悪で犯罪的ではなかった。若い隊員は、テーブルを飛び越えたり、腕立て伏せをしたり、「蝶を捕まえる」動作、つまり飛び上がって空中で手を叩いたり、古参隊員の制服を洗ったり、ベッドを整えたり、規則に定められていない他の多くのことをさせられた。アルヒポフは、言うことを聞かない「若者」をベルトのバックルで叩いて罰することも出来た。もちろん、人間の尊厳に対するこのような屈辱は、前哨基地の健全な雰囲気の創出には貢献しなかった。

しかし、本来の指揮官は、自分の個人的な問題で忙しく、国境前哨基地内で何が起こっているのかに気づかなかったか、もしくは何も見たり聞いたりしていないふりをしていた。1993 年末、ソロマキンの不注意に乗じてアルヒポフは司令官の金庫の鍵を盗み、複製を作った。こうして「じいさん」たちは救急箱から鎮痛剤のアンプル約 100 本と麻薬を含むその他の薬を盗んだ。「じいさん」たちだけでなく、若者たちも薬物によって「ハイ」になった。

徴兵された兵士の健康診断が不十分だったため、明らかに精神異常のある男たちも兵役に就いた。その中には「若者」の A. ボグダシンもいた。彼は「民間生活」でも武器に対する病的な渇望を抱いていた。アメリカのアクション映画を愛し、自分を「スーパーマン」だと考え、シュワルツェネッガー風のポーズをとるのが好きで、何度も仲間に銃を向けて引き金を引いた。また、「若者」の間で「じいさん」たちを全員撃つ必要があると話したこともあった。しかし、若者たちは彼の言葉を真に受けず、冗談だと考えた。恐ろしい惨劇の1か月前、「スーパーマン」の演説を聞いた「じいさん」のアルヒポフ軍曹は、彼に機関銃を渡し、「俺を殺したいなら撃て!」と言った。ボグダシンは考えた後、武器を投げ捨てた。

ソロマキンはこの事件を知ったが、関係した隊員に対して何の措置も取らなかった。後に、分遣隊本部の将校たちは、前哨基地の司令官が兵士集団で起こった出来事の本質を徹底的に調べ、関係者を厳しく処罰していれば、惨事は避けられただろうと語った。

3月8日の朝、水晶島も国後島同様、快晴だった。調査結果によると、その祝祭日の出来事の時系列は次の通りである。

その朝、前哨基地には、N.ソロマキン大尉(島に駐留する巡視船の士官候補生が彼を訪ねていた)、救急救命士A.アファナシエフの妻エレナ(料理人でもある)とその幼い娘、そして国境警備隊員12人がいた。さらに6人の兵士が、前哨基地からかなり離れた場所にあるPTN(技術監視ポイント)で勤務していた。

午前6時、前哨基地はまだ眠っていた。起きていたのは前哨基地の哨兵D.ベルコフ、前哨基地当直A.ボグダシン、ディーゼル発電機の整備士A.ミケエフの3人だけだった。ベルコフは許可なく持ち場を離れ、友人のボグダシンのもとへ行った。ボグダシンは「横柄なじいさん」たちを始末しようと提案した。彼らは建物の中央にあり、訓練の練兵場としても使われていた広々とした玄関ホールに出て、寝室の後ろの壁に向かって機関銃を数発発射した。

カバルディノフ軍曹は眠っている間に銃弾を浴びた。怒れるボグダシンとベルコフは、まるで訓練中のように冷酷に自動小銃で、寝室から出ようとしていたN.バザロフとV.ショロホフ2等兵、M.ベリャエフ軍曹を撃ち、A.ヴァルニコフの腹部に重傷を負わせた。ヴァルニコフはその後、失血で死亡した。

弾倉の弾が尽きると、殺人犯たちは弾薬を求めて武器庫へ走った。負傷したN.コピロフ二等兵とA.スヴィニン二等兵は、そのすきに寝室から逃げ出し、小麦粉の袋の後ろに隠れた。アルヒポフ軍曹とシャンギン二等兵は、ディーゼルエンジンが何台も並んでいる発電所に隠れることができた。しかし、正気を失ったボグダシンとベルコフは、隠れている場所に気づいた。ボグダシンは発電所のドアを開けて長射程の銃弾を発射し、シャンギンの脚に重傷を負わせた。彼らは反撃を恐れて中には入らなかった。アルヒポフは負傷したシャンギンを暗いシャワー室に運び、仲間の命を救った。

「じいさん」のリーダータ格アルヒポフは助かった。前哨基地から逃げる機会があったのだが、軍曹はそうしなかった。まだ生きていた国境警備隊を救いたかったからだ。その後の彼の行動はすべてそれを示している。彼は武器庫に駆けつけ、ハンマーで南京錠を叩き壊したが、内側の錠を壊す時間がなかった。殺人者たちはその音を聞いた。彼らを見て、アルヒポフは前哨基地に走ったが、弾丸の1つが彼に当たった。負傷し地面に横たわっていた軍曹に、ボグダシンはまるで訓練のように、ベルコフに命令し、至近距離から撃った。

銃声が静まると、鶏舎の後ろに隠れていたディーゼル機関のオペレーター、ミケエフがボグダシンたちのところにやって来た。その後の聴取で、彼はかつての友人たちに武器を捨てて降伏するよう説得したかったと説明していた。しかし、ボグダシン言うことを聞かなかったばかりか、「処刑するぞ」とミケエフを脅して協力を強要した。こうして、ディーゼル発電機のオペレーターは、手に血はついていなかったものの、殺人犯の共犯者となった。

武器庫に到着した3人は、狙撃銃、手榴弾、機関銃、自動小銃を持っていった。午前10時頃、国境警備隊のヘリコプターが地平線上に現れた。乗組員は、前哨基地での銃撃の理由と別棟が燃えている理由を調べるためにタンフィリエフ島に向かっていた。ベルコフはためらうことなく、機関銃を連射したが、外れた。その後、ボグダシンが機関銃でMI-8を撃った。ヘリコプターは煙を上げながら降下し、丘の裏に落ちて炎上した。乗組員が死亡したと判断した3人は前哨基地に戻った。どうやら、生き残った人々を不都合な目撃者として殺すためだったようだ。

しかし、ヘリコプターの乗組員は死んでいなかった。A. ティシュチェンコ司令官とA. シショフ整備士は、燃えるヘリコプターから負傷者を運び出し、小さな丘の裏に隠した。彼らはまだ島で何が起こっているのか理解していなかった。ティシュチェンコとシショフは隠れることなく前哨基地に向かった。そこに血まみれの死体があるのを見て、彼らは引き返した。その時、殺人者に気づかれ、発砲された。幸い、ヘリコプターのパイロットに弾丸は当たらなかった。

N. ソロマキン司令官は困難な状況に陥った。最初の銃声を聞くと、彼は家を出て兵舎に向かったが銃撃を受けたため、家に戻った。銃撃が止んでいる間に、彼はなんとか前哨基地にたどり着いたが、そこで死体を見て、再び家に戻った。狩猟用ライフルを手に、彼は士官候補生のV.ソロドヴニコフ、コックのE.アファナシエワ、そして彼女の幼い娘とともに、巡視船の船着き場に行き、そこで警報を発した。

武器をぶら下げた殺人者たちは休憩した後、A.ミケエフを連れて海軍の水兵のところへ向かった。彼らの言い分によれば、降伏のためだったというが、それはありそうにない。国境警備隊によると、船を奪って日本へ向かうつもりだったという。しかし、肘まで血にまみれた殺人犯を日本人がかくまったとは考えにくい。それに、彼らは何の役にも立たない。敵に超近代的な戦闘機を「与えた」裏切り者のパイロット、ベレンコ中尉(函館に着陸し、亡命したミグのパイロット)ではないのだ。日本がこの3人をロシア当局に引き渡したであろうことは、100%確信をもって言える。

南クリル国境警備隊の司令部は、37人の将校と准尉からなる上陸部隊を乗せた2機のヘリコプターを水晶島に派遣した。彼らは前哨基地での血なまぐさい虐殺に関わった全員を逮捕するよう命じられていた。大量射殺の実行犯は「空挺部隊」に遭遇すると混乱し、武器を投げ捨てた。3人は縛られ、ヘリコプターで国後島の国境警備隊の司令部ゴリャチイ・プリャジに送られた。

この事件の捜査は長期間続いた。その結果、軍事法廷はボグダシンとベルコフに最高警備の刑務所での長期刑を宣告した。仲間の処刑に参加しなかったミケエフには寛大な判決が下された。ソロマキン大尉は、臆病さと前哨基地の指揮のまずさで国境警備隊から解雇された。もちろん、この惨劇は彼の責任だ。だが、モスクワの指揮官たちを含め、彼の直属の指揮官たちも、同様に責任を負わなければならなかった。しかし、1990年代のロシアを支配していた状況を忘れてはならない。混沌、無政府状態、無法、荒廃だ。「皇帝ボリス」(エリツイン大統領)は酒を飲み、側近たちはただ一つのことだけを考えていた。草も生えないくらいできるだけ多くを奪うことだ。

遠く離れた水晶島での銃声は、ロシア国内だけでなく、国境をはるかに越えて響き渡った。水晶島での悲劇は、わが国境警備隊の歴史に残る汚点となった。部隊の秩序が回復するまでには長い時間がかかった。

あの血なまぐさい虐殺から20年が経った。犠牲者の遺族にとって、3月8日の祝日は追悼の日である。生き残った人々も、この日を2回目の誕生日として祝う。

水晶島では、第1前哨基地の国境警備隊が引き続き勤務している。
(D. ANDREEV. Newspaper “Rybak Sakhalin” No. 23 of June 122014)

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