「日本兵は抵抗し、自決した」北方領土・択捉島侵攻を語る 97歳の元重量挙げ欧州チャンピョン 

択捉島の話題

大祖国戦争と対日戦勝80周年であり、プーチン大統領が「祖国防衛者の年」と宣言した2025年、ロシアメディアがキャンペーンを展開している。タス通信は2月19日、97歳の元重量挙げ欧州チャンピョンであるウラジミール・ビルホフスキー氏のインタビューをウエブサイトに掲載した。

ビルホフスキー氏は1945年8月、北方領土・択捉島への侵攻作戦に参加していた。択捉島上陸に際して、「日本軍は洞窟に潜んで抵抗した」「甲板に立っていた馬に敵(日本軍)の砲弾が当った」「捕虜になることを良しとせず日本兵は自決した」などと語り、自身も「島で友人を失った」と答えている。「抵抗した日本軍を打ち破ったソ連兵の偉業についてはほとんど書かれていない」と不満そうに語っている。

しかし、ソ連側の記録でも日本側の資料でも、択捉島を含む北方領土への侵攻で、組織的な戦闘があったという記録は見たことがない。多くの血が流れた占守島の戦いとまでいかなくとも、択捉島を占領する際にも多くの困難があったと強調したくて、誇張して語っているものと思う。

北方領土侵攻時のソ連兵の死亡については、1945 年 9 月 8 日、国後島で日本軍の武装解除を行っていたソ連兵が死亡したという記録がロシア国防省の中央文書館に残っている。戦闘任務ではなく、何らかの事故と思われる。赤軍兵士は古釜布湾の近くに埋葬されたとされている。

ちなみに、ビルホフスキー氏その功績により「1941~1945年大祖国戦争における対ドイツ戦勝」および「対日本戦勝」の勲章が授与されている。

以下、タス通信の記事から

— 1945 年 5 月にナチスドイツが降伏を宣言した後、ソ連にレンドリース品を輸送するソ連船の乗組員の作業量は減りましたか?

— そうは思いません。1945 年 8 月、私たちの船はウラジオストクに到着しました。荷降ろしの後、私たちはとても疲れていて、眠れない長い夜を眠って過ごそうと決心していました。しかし突然、船長の命令が鳴り響きました。「全員、各自の持ち場に着け。クリル諸島(注:この場合、北方四島)へ向かう」。3 個大隊の兵士が私たちの船に到着し、その後、私たちはトラックと、藁を含むすべての食料とともに何十頭もの馬を乗せました。敵の海岸に近づき始めたとき、甲板に立っていた馬に敵の砲弾が当たり、一部の馬はパニックに陥って水に飛び込み始めました。仲間が水中で死んでいくのを見て、馬が泣いているのを見たのは、これが初めてでした。恐ろしい光景でした。

択捉島に停泊するのは非常に困難でしたが、船長はなんとかやり遂げました。我々の部隊に対抗した日本軍は、岩に掘った非常に厚い扉を備えた掩蔽壕で身を守りました。彼らを煙で追い出すのは非常に困難でしたが、我々の工兵は自分の仕事をよく知っていました。多くの日本軍は降伏せず、最後まで戦い、捕らえられる代わりに自殺しました。そこでは非常に困難でした。私はその島で友人を失いました。残念ながら、クリル諸島の数十の小島の岩に穴を掘って抵抗した日本軍を打ち破ったソ連兵の偉業についてはほとんど書かれていません。そして、これは間違っていると思います。

しかし、徐々に彼らの抵抗を打ち破り、私たちの船は最初の捕虜を受け入れ始めました。積み込みの前に、日本軍は船に武器を持ち込まないように注意深く検査されました。船長は捕虜に細心の注意を払うように私たちに指示しました。ラ・ペルーズ海峡(宗谷海峡)を通ってソビエツカヤ・ガヴァンまでの非常に困難な航路が私たちを待っていました。

海を渡っている間に緊急事態が発生しました。最初、捕虜たちには北海道に連れ帰ると伝えました。しかし、渡っている最中に、日本兵の一人が隠していたコンパスを使い、自分たちが連れて行かれるのは故郷ではなくソ連だと気づきました。私たちはなんとか彼らの抵抗を抑えました。日本人の一人が私を絞め殺そうとしましたが、私の強い手のおかげで死を免れました。

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