1994年10月4日シコタン地震(北海道東方沖地震)「私たちは住民にとって極めて重要な緊急情報をラジオで絶え間なく伝えていた日本の放送局を見つけた」

色丹島の話題

1994年10月4日の出来事–ちょうど32年前のこの日、色丹島の全住民が、激しく揺れる家屋や宿舎から飛び出し、安全な広場へと避難した。多くの住民にとって、それまで慣れ親しんだ部屋やアパートは、突然、安全に過ごせる場所ではなくなってしまったのだ。

パニックは起きたか?一時的に取り乱す人はいたが、全体としては、人々は落ち着きを保っていた。互いの安否を確認するために、自然と点呼をとるような動きも見られた。倒れた家具で出口が塞がれた家やアパートから、近隣住民の脱出を助ける人々の姿も多くみられた。ある友人のことを思い出す。彼らは前日に畑でジャガイモを数袋収穫し、夜の間、建物の入り口に置いていた。しかし地震の揺れでジャガイモが袋からこぼれ出し、出口を塞いでしまったのだった。

今日では、現代の通信技術のおかげで、自分の村だけでなく地球上のどこで何が起きているかを即座に知ることができる。しかし当時は、そのようなものは何一つなかった。地震発生の最初の数秒で、非常用電源を含むすべての電力が途絶えた。近所の人と私は、崖の方へ滑り落ちかけていたガレージから何とか車を引っ張り出し、ラジオをつけた。するとすぐに、住民にとって極めて重要な緊急情報を絶え間なく伝えている日本の放送局を見つけることができた。そこでは、刻々と変わる状況、激しい火災の発生場所(日本では地震時によくあること)、そして津波がいつどこに到達するかといった詳細が報じられていた。そして何よりも重要だったのは、この特定の状況下でどう行動すべきかという明確な指示が住民に向けて放送されていたことだった。私たちが受信したその周波数の放送は英語で行われていた。

その時初めて、私たちは大地震が起きたのだと悟った。しかし当時は、この大災害が私たちの生活をどのように変えてしまうことになるのか、知る由もなかった。

地震の主なパラメータ

マグニチュード:サハリン州地震観測局によるとリヒタースケールで8.1でしたが、世界の多くの機関は8.3と推定した。

震源の深さ:様々な情報源が20〜33kmの範囲としている。

震央:小クリル列島(※色丹島と歯舞群島)の太平洋側、色丹島の南東約120km。

揺れの強さ:色丹島(具体的にはマロクリリスコエ=斜古丹およびクラボザボツコエ=穴澗の集落)— 9以上(!!!) これは20世紀に地球上で発生した地震の中で3番目に強力なものだった。国後島— 7〜8。(Shikotan telegraph 2026/10/5)

あの色丹島地震(北海道東方沖地震)から30年(Shikotan telegraph 2024/10/5)

30年前の1994年10月5日未明、色丹島で壊滅的な地震と津波が発生した。震源地は色丹島から南東に120km離れた場所でマグニチュードは8.3だった。震度は国後島と択捉島で8~9ポイント、色丹島で9ポイントだった。津波の高さは色丹島で10m、国後島で5~6mに達した。地震の最初の揺れは10月5日午前零時23分に発生した。揺れは71秒間続いた。択捉島のゴリャチエ・クリュチ村(瀬石温泉)の軍病院が倒壊し、同島で8人、色丹島では3人が死亡した。最も被害が大きかったのは、地震多発地帯の建設要件を考慮せずに建てられた、レンガとコンクリートブロックの比較的新しい木造住宅だった。耐震性を考慮に入れて建てられたパネルや木造の建物は被害が少なかった。余震は翌週まで続いた。人々は家に戻ることを恐れ、車やテントの中で夜を過ごした。この地震によって色丹島は丸ごと約0.6mも海に沈み、島内の多くの地域で地割れ、地滑り、崩壊が発生した。被災地には22,400人が住んでいた。377棟の住宅が全壊または一部損壊した。7,700人(2,500世帯)が家を失った。色丹島の6つの水産工場のうち、復旧したのは2つだけだった。小型漁船、運搬船、大型船(150m)が海岸に打ち上げられた。石油タンクは波によって200~250mの距離を運ばれた。クラボザボツコエ(穴澗)では、破壊されたタンクから約1,000トンの石油が湾に流出し環境を悪化させた。この地震の後、南クリル地区の人口は半減した。人々は地震による恐怖と苦難を再び経験したくないと思い、島を去った。

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