モスクワ宣言〚日ソ共同宣言〛70周年:日ソ間の戦争はいかにして終結したか

日ロ関係

一般に信じられていることとは異なり、両国間に戦争状態は継続していない。1956年の「モスクワ宣言」への署名によって、戦争状態は終結したのである。

モスクワ宣言への署名

ロシア(ソ連の法的継承国)と日本の間には、正式な平和条約が締結されていないという理由だけで、現在も戦争状態が続いているという見方が、ロシアと日本の双方に根強く残っている。平和条約が締結されていないのは、クリル諸島南部(※北方四島)の島々の主権をめぐる問題が未解決であるためだ。このことから、両国間には事実上、戦争状態が続いていると推測する者もいる。しかし、これは誤った認識であり、すでに悪化している両国間の緊張をさらに高めようとする人々の利益にかなうものに過ぎない。

1956年10月19日、モスクワにおいて、戦後両国間に生じていた多くの懸案事項を扱う「国交回復に関する共同宣言」が署名された。署名者は、ソ連閣僚会議議長のニコライ・ブルガーニンと、日本国内閣総理大臣の鳩山一郎であった。

同宣言の第1条には、「本宣言が効力を生ずる日に、両国間の戦争状態は終了し、両国間に平和及び善隣友好関係が回復される」と明記されている。これにより、両国に外交使節団が設置され、様々な分野での関係が再構築され、両国の水域における漁業問題などが取り扱われることとなった。この共同宣言の条項には、極めて前向きな意図が反映されていた。双方が望みながらも外部勢力によって積極的に妨害された「本格的な平和条約」には至らなかったものの、この宣言は両国関係における決定的な転換点となったのである。しかし、中心的な問題は依然として残っており、それどころか、より深刻さを増していた。すなわち、クリル諸島南部の島々――択捉島、国後島、および小クリル列島(※色丹島と歯舞群島)――の帰属をめぐる領​​土問題である。

領土問題

終戦後、両国が正式な関係を樹立するまでには、かなりの時間を要した。1951年9月8日、日本と、日本の侵略によって被害を受けた国々との間で、サンフランシスコ平和条約が調印された。しかし、ソ連(およびチェコスロバキアとポーランド)は、条約文書の特定の解釈に同意できず、署名しなかった。中国は、参加の招待すら受けなかった。同条約の規定に基づき、日本は南サハリン(樺太)やクリル諸島(千島列島)を含むすべての植民地に対する権利を放棄した。しかしその後、日本側は、この条約文書には、放棄されたこれらの領土が「誰に」帰属するものとして放棄されたのかが明記されていない、と指摘した。

とはいえ、隣国同士である以上、両国は友好関係を築く必要があった。1955年6月14日、ソ連は平和条約案を提示した。これには、戦争状態の終結と正式な関係の回復に加え、貿易、航行、漁業などに関するその後の交渉を行うことが盛り込まれていた。サンフランシスコ平和条約の調印に際しても、日本側代表団は、敗戦国としてすべての植民地を放棄することを認めつつも、クリル諸島(千島列島)という用語には、現在「小クリル列島」と呼ばれている色丹島や歯舞群島は含まれない、という点を指摘した。この問題は、サンフランシスコ平和条約の批准をめぐる日本の国会審議においても議論された。最終的に、ソ連に対する領土要求は、歯舞群島と色丹島に限定すべきであるという合意に至った。戦前や戦時中の日本の地図では、クリル諸島全体が「千島」という名称に含まれていたが、日本政府は――米国の支持を得た上で――歯舞群島と色丹島の問題を強調し、ソ連側に対して領有権を主張する道を選んだ。しかし、日本研究の専門家であるアナトリー・コシュキン教授が指摘するように、この戦略は、領土問題を交渉のカードとして利用し、戦後処理の他の側面においてモスクワから譲歩を引き出そうとするものだったと考えられる。その一例が、戦争犯罪で有罪判決を受けた者を含む日本人捕虜や、民間人の帰還問題であった。

あまりに強硬な姿勢をとれば日本が米国に接近しかねないと懸念したフルシチョフ指導下のソ連政府は、領土問題に関して妥協案を提示することを決定した。モスクワは歯舞群島と色丹島を日本に引き渡すことに同意し、この提案は1955年6月にロンドンで行われた会合の際、日本側代表団に伝えられた。これこそ、日本がまさに望んでいたことであった。

モスクワと東京の接近は米国にとって好ましいことではなく、米国は日本に対し、ソ連との国交正常化は米国の援助計画を危うくする可能性があると警告した。さらに、ジョン・フォスター・ダレス米国務長官は、もし日本が択捉島と国後島をソ連の領土と認めることに同意すれば、米国は戦後占領している沖縄の支配を永続的に継続すると脅しをかけた(沖縄は最終的に1972年に日本へ返還された)。米国によるこうした対応は、1945年2月のヤルタ会談における合意原則に反するものであった。同会談では、スターリン、ルーズベルト、チャーチルの三首脳が、千島列島と南樺太を全面的にソ連へ引き渡すことで合意しており、その見返りとしてソ連は対日参戦を約束していたのである。

他方、コシュキン教授が指摘するように、フルシチョフによる領土譲歩の提案は、日本側には「領土要求を強めるべきだ」というシグナルとして受け取られた。1956年9月から10月にかけて交渉のためモスクワを訪れた日本代表団は、平和条約の締結とは切り離して、歯舞群島および色丹島を日本に引き渡すよう要求した。その際、残りの島々の帰属問題については、後の段階で協議するという前提が置かれていた。

数日間にわたる議論と交渉の末、10月19日に文書が署名された。しかし、それは双方が当初望んでいたような正式な条約ではなく、「共同宣言」という形をとるものだった。同宣言の第9項には、「ソ連は、日本の要望に応え、かつ日本国の利益を考慮し、歯舞群島および色丹島を日本に引き渡すことに同意する。ただし、これらの島々の実際の引き渡しは、ソ連と日本との間で平和条約が締結された後に行われるものとする」と記されていた。

この引き渡しにはいくつかの条件が提示されていたが、それらは文書自体には明記されていなかった。その条件の一つが、日本領土からの外国軍隊(具体的には米占領軍)の撤退であった。モスクワが懸念を抱いた背景には、1951年9月8日に発効し、日本と米国の軍事同盟を強固なものとした「日米安全保障条約」の存在があった。この協定は、後に1960年の「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」へと引き継がれた。

一方、日本側は「不法占拠されている北方四島」という主張を公然と展開し始め、地図上の用語を駆使してこの立場を補強するようになった。具体的に言えば、「歯舞群島」という呼称は、ポロンスキー島(多楽島)、ゼリョ―ヌイ(志発島)、デミナ島(春苅島)、アヌーチナ島(秋勇留島)、シグナリヌイ島(貝殻島)などからなる島々を指しており、日本では便宜上、これらをまとめて一つの「島」として扱っている。

小さな小島や岩礁を含めると、こうした地形は全部で30ほど存在する。ロシアの地図上では、これらは色丹島とともに「小クリル列島」と位置づけられている。したがって、「北方四島」という呼称は日本側が用いる地図上の概念に過ぎず、日本が領有権を主張する地理的対象の実際の数は、それよりもはるかに多い。それにもかかわらず、ロシアのメディアは、こうした地図上の「作り事」や「歯舞」といった名称を、何ら深く考えることなくそのまま採用している。

領土問題を必要としているのは誰か?

日本は80年にわたり、ロシアに対して領土主張を続けてきた。日本の政治体制の中では、南クリル諸島(北方四島)――ひいては千島列島全域およびサハリン南部――がソ連へ引き渡されたことの正当性を認めない勢力が、極めて早い段階から主導権を握るようになった。こうした勢力は、本質的に反ソ的(ひいては反ロシア的)であった。その理由の一つは、戦後直後の日本当局が、国内外で共産主義思想が浸透していくことを恐れ、それを自国の国家体制に対する脅威と見なしていたことにある。彼らは、冷戦下でソ連との対立路線を歩み始めたかつての敵国、米国に、確かな「防波堤」を見出したのである。

したがって、日本がその後、米国の追随者として、「不沈空母」の役割を事実上担い続けてきたことは、何ら驚くべきことではない。コシュキン教授の著書『ロシアと日本:矛盾の結び目』の中で、カリフォルニア大学の長谷川毅教授(※現在は名誉教授)は次のように指摘している。「米国の目的は、日本を自国の世界戦略に引き込むことにあった……。『北方領土』問題は、日本をこの世界戦略に組み込むことを可能にし、日本のナショナリズムの矛先を米国から逸らして、ソ連へと向けさせる役割を果たした。……日本には対ソ外交など存在せず、あったのは『北方領土政策』だけだった。……『北方領土』問題は、極東の国際関係において、一種の蒸気逃し弁として機能した。この観点から見れば、領土問題が未解決のままであることは不可欠だったのである」–。(sakh.online 2026/10/20)

タイトルとURLをコピーしました