後ろ暗い歴史 歯舞群島占領 国後島の地元紙「国境にて」

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水晶島、秋勇留島、勇留島を占領したDS-31(米ソ極秘作戦「プロジェクト・フラ」で米国から供与されたLCI-593)

国後島の地元紙「国境にて」がソ連軍による北方四島上陸作戦つにいての記事をウエブサイトに掲載した。その中で、「歯舞群島上陸作戦に関する歴史資料が皆無に等しい」理由として、「この作戦が公式な『対日戦勝記念日』の後に実施されたためである」と書いている。

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クリル諸島(※この場合、北方四島)の占領時期については、歴史的資料によって記述が食い違っている。作戦参加者(元第113狙撃旅団兵士)の回想録では、色丹島の占領は8月30日から31日にかけて行われたとされている。しかし、軍の公式公文書を引用した軍事史家の調査によれば、色丹島の占領は9月1日であり、小クリル列島(色丹島と歯舞群島)の他の島々が完全に確保されたのは9月4日であったと示されている。

南サハリンと北クリル諸島(北千島)の占領に至る激戦を経て、南クリル諸島への上陸作戦の準備が開始された。1945年8月28日、太平洋艦隊司令官I.S.ユマシェフは、暗号電報により以下の命令を下した。

「第16軍(第2極東方面軍)司令官と共同で、択捉島および国後島を占領し、小クリル列島の島々を占領するための橋頭堡を確保せよ。第355狙撃師団、第113狙撃旅団、および砲兵連隊を当該島嶼へ輸送すること。大泊(現コルサコフ)港にて乗船・出撃を行うこと。第355狙撃師団の2個連隊を択捉島に、1個連隊を国後島に上陸させること。これらの島々を確保した後、第113狙撃旅団の部隊は小クリル列島の島々の偵察および占領を行うこと」

最高司令部からの暗号電報より:

「最高司令部は以下の通り命じる:日本軍が武器を置き降伏している戦線区域においては、戦闘行動を停止せよ。日本軍捕虜を適切に扱うこと……」

南クリル諸島占領のための上陸作戦指揮官には、I.S.レオーノフ一等海佐が任命された。

8月28日、ウルップ島の歩兵守備隊が降伏した。同島には、2個狙撃中隊(人員344名)を乗せた2隻の掃海艇からなる海軍部隊が到着していた。国後島への上陸部隊は3つの部隊に分かれ、8月31日、9月1日、9月2日の順に大泊(現在のコルサコフ)港から出撃した。

8月28日午後1時、艦隊が択捉島の留別湾に投錨した。掃海艇の乗組員から編成された第一陣の部隊が、艦載艇を使って上陸した。上陸地点には日本軍の将校らが到着し、降伏の用意があることを伝えた。択捉島に駐留していた日本軍の歩兵師団(※89師団師団長・陸軍中将小川権之助)は、将兵計13,500名で構成されていた。

太平洋艦隊司令長官I.S.ユマシェフ大将は、偵察を目的として、択捉島から国後島へ1個中隊を移動させるよう命じた。V.I.オフシャニコフ大尉(大隊長)率いる147名の空挺部隊は、掃海艇「TShch-590」に乗船し、択捉島から国後島へ向けて出発した。同掃海艇は、上陸作戦に使用される日本の漁船(日本人船員が操船)を曳航していた。掃海艇は9月1日06時15分、古釜布湾(ユジノクリリスク)に到着した。湾内には、大泊港から到着したB.I.ヴィニチェンコ3等海佐指揮下の第113狙撃旅団を乗せた艦船も同時に入港した。

この分遣隊は、上陸用舟艇「DS-31」(P.G.スヴャテンコ少佐指揮)および「DS-34」(P.A.アブラメンコ上級中尉指揮)に加え、上陸部隊への航行・戦闘支援を任務とするフリゲート級哨戒艦「SKR-4」で構成されていた。

乗船部隊の総員は次のように配置されていた。「DS-31」には短機関銃兵大隊と偵察中隊(計216名)および45mm砲2門が搭載され、「DS-34」には衛生中隊、対戦車砲中隊、対戦車ライフル中隊(計186名)が搭載された。

9月1日06時40分、分遣隊は古釜布湾(現在のユジノクリリスク、集落の下部地域)にて上陸作戦を開始した。日本の使節が到着し、将兵1,250名からなる同島の守備隊が武装解除に応じる用意があることを報告した。10時00分、B.I.ヴィニチェンコ3等海佐率いる上陸分遣隊は…… ヴィニチェンコは国後島沿岸への部隊上陸を完了させ、全周防御態勢を整えるとともに、捕虜、兵器、および装備の収容を開始した。

9月3日、P.A.チチェリン3等海佐が指揮する第2上陸部隊がコルサコフから国後島に到着した。軍用輸送船「フセヴォロド・シビルツェフ」および「ノヴォシビルスク」は、人員2,479名、車両56台、火砲27門、馬190頭、ならびに弾薬・食糧345トンを同島へ輸送した。荷揚げ作業は、現在のユジノクリリスカヤ湾(古釜布湾)の沖合停泊地から艦載艇を用いて行われた。上陸部隊には、沿岸の木造構造物を解体し、貨物輸送船が接岸できるよう桟橋を拡張する任務が課された。

同部隊は、フリゲート型哨戒艦「SKR-6」(V.K.クレショフ3等海佐指揮)および「AM」級掃海艇2隻(第273号艇:T.A.コロフ上級大尉およびN.P.ロゴヴェンコ上級大尉指揮)で構成されていた。

9月1日午前9時、A.I.ヴォストリコフ3等海佐が指揮する上陸部隊がコルサコフから色丹島に到着した。小銃中隊、迫撃砲中隊、対戦車銃中隊、大隊後方支援部隊、対戦車砲小隊、短機関銃兵中隊、衛生小隊からなる総勢830名の人員が、機雷敷設艦「ギジガ」(A.A.プロホロフ上級大尉指揮)および掃海艇「UMS-594」(N.I.アフィノゲノフ上級大尉)、「UMS-596」(B.A.ククシュキン上級大尉)に乗船していた。部隊に加え、これらの艦船は45mm砲2門、3トン・トラック2台、馬車31台、馬59頭、および弾薬・食糧50トンを輸送した。艦船は色丹湾(現在のマロクリリスカヤ湾=斜古丹湾)の桟橋に接岸した。

使節として派遣された日本軍将校の報告によれば、色丹島には土井定七少将の指揮下にある第4旅団および野砲兵大隊(将兵計4,800名)が駐留しており、同守備隊は武装解除に応じる用意ができていた。9月1日午前11時40分までに上陸作戦は完了し、全周防御態勢が確立されるとともに、捕虜および軍備の引き渡し手続きが開始された。興味深い点として、島内には弾薬が全く残されていなかったことが挙げられる。おそらく事前に廃棄または搬出されていたものと思われる。

南クリルへの上陸をめぐる一連の複雑な経緯は、小クリル列島への上陸をもって幕を閉じる。この特定の上陸作戦に関する情報は、歴史資料において皆無に等しい。その理由は単純で、この作戦が公式な「対日戦勝記念日」(9月3日)の後に実施されたためである。

小クリル列島の全島の占領は、太平洋艦隊司令長官I.S.ユマシェフ大将の決定により命じられた。9月2日、南クリル上陸作戦の責任者であったI.S.レオーノフ一等海佐は、水晶島(現タンフィリエフ島)、秋勇留島(アヌーチナ島)、勇留島(ユーリ島)、春苅島(デミナ島)、志発島(ゼリョーヌイ島)、多楽島(ポロンスキー島)、および灯台を含むトド島(リスィ島)を占領するよう指令を受けた。作戦の指揮はP.A.チチェリン三等海佐が執り、N.ロゴヴェンコ上級中尉とT.コロフ上級中尉が指揮する2つの上陸部隊を編成した。

9月3日午前11時19分、各艦は国後島沖で抜錨し、小クリル列島の島々へ向かった。島々は9月4日中に、大きな事件もなく占領された。例えば、水晶島(タンフィリエフ島)の日本軍守備隊は将兵わずか10名、秋勇留島(アヌーチナ島)は40名であった。最大の守備隊は志発島(ゼリョ―ヌイ島)に置かれ、その規模は将兵420名であった。一部の兵士は捕虜となり、同日のうちに国後島へ、次いでコルサコフへと移送された。

こうして、南クリル諸島は一発の銃弾も撃たれることなく占領された。南クリルにおいてソ連軍に降伏した日本軍将兵は、総勢約2万名に上った。戦闘は発生しなかったが、降伏条件への違反に関わる事件がいくつか起きた。クリル諸島全体(占守島から色丹島に至る)では、将軍4名を含む計5万442名の日本軍将兵が武装解除され、捕虜となった。

作戦後、治安維持任務のため以下の部隊がクリル諸島に残った。国後島には第113狙撃旅団の部隊、色丹島には第113狙撃旅団第2大隊である。そして小クリル列島の各島には、必要な舟艇と兵器を装備した短機関銃兵および海軍上陸部隊の小隊が配置された。

当初計画していた北海道へのソ連軍上陸作戦は、I.V.スターリンの個人的な命令により中止された。(kurilnews.ru 2026/9/2)

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