「島にサクラが咲いた」–。今年5月15日、色丹島在住ロシア人や旧居住者などが参加する通信アプリ「テレグラム」のニュースグループ「シコタン・テレグラフ」からサクラの開花を知らせるニュースが届いた。北方領土を含めて根室地方でサクラと言えば、それはチシマザクラのことを指す。
根室市内では清隆寺のチシマザクラが知られている。明治の初め、根室の大工さんが国後島から持ち帰ったものをお寺に移植したと伝えられるが、「桜前線の終着地」と称される本土最東端の根室市で、開花宣言の対象となる標本木は市街地の高台にあった旧根室測候所の敷地に残る1本のチシマザクラで、今年は5月6日に開花宣言が行われた。

根室の町を歩くと、庭の片隅に小ぶりのチシマザクラを植えている家が多いことに気づく。ほのかに白い、どこか控えめな花びらが清楚な印象を漂わせている。吹き付ける冷たい北風をやり過ごすためなのだろうか、背を低くかがめるようにして、枝を横に広げている姿は根室半島の奇樹ミズナラと並んで、この地域の自然と精神風土を象徴する原風景だと思う。
さて、色丹島のチシマザクラの話である。「シコタン・テレグラフ」にニュースを投稿したロシア人によると、「この島に野生のチシマザクラ、あるいはかつて植えられたものが野生化したチシマザクラが今も存在するのかどうか、私の知る限り、その答えは出ていない。古くからの住民たちは、この素晴らしい島の片隅でチシマザクラを見かけたと言っているが、それを裏付ける写真などの証拠は存在しない」という。では、島に咲いたチシマザクラとはいかなるものなのか。件のロシア人によると、そこにはちょとした物語があった。
「10年ほど前、根室から筒に入れてこっそりと一本のチシマザクラを持ち込んだことがある(もし税関関連の違反があったとしても、時効はとっくに過ぎていることを願う)。そのチシマザクラは、根室で電気屋さんを営んでいた友人からの贈り物だった。その店は、島で使用できる220V対応の電化製品や土産物を扱っていた。友人は独学でロシア語を習得し、才能ある芸術家でもあり、興味深いエレキギターのコレクションを持っていた。残念なことに、彼の店は(もともとそれほど儲かっていたわけではないと思うが)その後、閉店してしまったようだ。友人が最初にチシマザクラをくれたのはずいぶん前のことだったが、それを北海道から持ち出すのは容易なことではなかった」
チシマザクラの北方四島への持ち込みについては、こんな出来事があった。北海道新聞によると、1996年5月、国後島の元島民らを中心としたビザなし交流訪問団が、根室市で開催された北海道植樹祭を記念し、さらなる交流促進をはかる目的で、国後島に植える根室市の木のチシマザクラと北海道の木のエゾマツの苗木を持参した。苗木は植樹祭の前日に検疫を済ませ、式典で堀達也知事と大矢快治根室市長から訪問団代表に渡された。訪問団は交流促進を願う知事のメッセージを添え、南クリル地区行政府に渡す予定だった。しかし、入域手続きの際、ロシア側が苗木の植物検疫証明書の提示を求めたため、訪問団に同行していた日本外務省の課長補佐は本省と協議のうえ「証明書提出は、ロシア政府の許可を得ることになり、北方領土の主権問題にかかわる」として拒否。結局、植樹は実現しなかった。訪問団に同行していた鈴木宗男衆議院議員は帰途の船内で「主権論議を振りかざすべきではない。外務省は植樹の実現に努力すべきだ」と主張。その際に課長補佐に暴行を加えたとされ、そのことがスキャンダラスに報じられた。当時の新聞は「北方四島の主権は日本にあるという従来の日本政府の主張を軽視した姿勢に批判が出るのは確実だ」などと書いていた。
「そこで私たちは、彼の家の裏にある小さな庭にそれを植えて世話をすることにしたが、その幼木は台風で枯れてしまったため、友人は苗木屋に別の苗を注文した。そして、私はその苗を色丹島へ持っていくことにした。苗はとても小さく、標準的な運搬用の筒にすっぽりと収まった。島に到着すると、私はそのチシマザクラを家の前に植えた。苗はなかなか根付かなかった。枯れはしなかったものの、ひ弱なままで成長の兆しはほとんど見られなかった。数年の間、花が咲くことはなかった。ある日、島を我が物顔で闊歩する牛の一頭がそのチシマザクラの木を踏み荒らしてしまった。私たちは辛うじて残った木を、別の民家の庭に移植することにした。ちょうどその頃、私は自分の故郷であるこの島を離れざるを得なくなった。そのチシマザクラの木は新しい場所でしっかりと根付き、みるみるうちに元気に育ち、やがて美しい花を咲かせて島民たちの目を楽しませてくれるようになった。もしかすると、この小さな木は、クラボザボツカヤ中等学校の伝説的な校長であったP.I.ロディナさんが長年抱いていた夢―校庭に本格的な日本のサクラ並木をつくるという夢―を実現するための、第一歩となるかもしれない」
クラボザボツカヤ中等学校は色丹島の穴澗湾を望む小高い丘に建っている。日本との縁がとても深い学校の1つだ。1994年の北海道東方沖地震で甚大な被害を受け、日本側が人道支援の一環でプレハブの教室を建てて贈った。色丹島出身の日本人島民でつくる色丹会は、ビザなし交流などを通じて同校と交流を続け、新校舎開校の時に「友情」と漢字でしたためた額縁入りの書を贈ったこともあった。その額縁は、校内の講堂に掲げられ、文字通り日本人とロシア人の「友情」の証となっていた。今では考えられないことだが、その当時、同校ではまだ日本語が教えられていて、成績表にも日本語学習の評価が載っていたという。

あまり知られていないが、2007年6月、ロシアのラブロフ外務大臣が色丹島を非公式訪問した際、当時新設されたばかりのクラボザボツカヤ中等学校を視察したことがあった。学校側はささやかな歓迎のコンサートを企画し、講堂で大臣のために日本とロシアの楽曲が披露された。日本語を学んでいる児童生徒は日本の唱歌「さくらさくら」を日本語で歌い、続いてロシアの民族衣装を着たダンスと歌のグループが、ロシア民謡に合わせて輪になって踊った。
歓迎コンサートを企画したのは、チシマザクラの開花を投稿した件のロシア人だった。「それは、なんとも驚きの瞬間だった!サハリンの役人たちは気絶しそうになっていた。ロシアの外務大臣の前で日本語の歌を子供たちに歌わせるなんて、なんということだ、と。ロディナ校長は、その場で解雇されそうになった。しかし、小さな歓迎コンサートの後、ラブロフ大臣は同校に地元行政の代表者を集め、明確にこう宣言した。『今日、クラボザボツカヤ中等学校で行われたコンサートのように、草の根の人民外交を確立すべきだ』と。すると皆はたちまち和気あいあいとし、そうだそうだとうなずき、『草の根の人民外交官』たちを祝福するために駆け寄り、子供たちと写真を撮り始めたのだった」
「草の根の人民外交」の基盤となっていた北方四島とのビザなし交流が途絶えて7年。クラボザボツカヤ中等学校には、まだ「友情」の額縁は掲げられているだろうか。『ボストーク66号(NPO法人ロシア極東研機関誌)≪北方領土★隣接地域通信⑩≫』


