「始まりの記憶」を持つ男 国後島のクリル自然保護区で勤続40年

国後島の話題

ロシアでは10月14日は「自然保護区・国立公園職員の日」–。2026年、クリル国立自然保護区は設立42周年を迎えた。スタッフの中には、保護区の黎明期からこの地域の保全に深く関わり続けてきた一人の男性職員がいる。今年、彼は勤続40年という大きな節目を迎えた。

セルゲイ・ミハイロヴィチ・オルシェフスキーは、1964年5月5日、国後島で生まれた。この森と共に育ち、保護区が設立される以前の姿を知る人物であり、この自然保護地域が誕生するまさにその瞬間を目撃した証人でもある。

セルゲイは、かつて名を馳せた漁業協同組合「ロジナ」で、機械工兼運転手としてキャリアをスタートさせた。その後、1982年から1984年にかけてソ連軍に入隊。ハバロフスク近郊の訓練部隊を経て、ザヴィチンスクやビロビジャンで任務に就いた。

「アムール地方の寒さは過酷でした。マイナス40度から50度にも達し、息をするのさえ困難なほどでした」とセルゲイ・ミハイロヴィチは振り返る。「ただ、風がなかったのが救いでした。あまりに静かで、周囲のあらゆるものが凍ってパリパリと音を立てるほどでした」

ルードノエ地域へ向かうGTT(無限軌道式全地形対応車)の観測窓から(1980年代後半)

※ルードノエは、国後島北部、オホーツク海側に位置する小さな集落(旧地質調査基地/掘削現場)。古釜布から北東約36km、セベリャンカ川の河口付近にある。

月給80ルーブル、そしてヘリコプターで届けられる1年分の小麦粉

セルゲイ・ミハイロヴィチは、漁業協同組合での高給な職を捨て、わずか80ルーブルという給与の仕事を選んだ。兄のヴィクトルと同様、彼は自らの心の声に従い、手つかずの自然を守るという、過酷でありながらもロマンあふれる道に身を投じた。当時、兄はすでに自然保護区の森林警備員として働いており、チャチナ川(音根別川)のほとりに設けられた、ストーブと丸太の床板を備えた簡素な竪穴式の住居で暮らしていた。

セルゲイ・ミハイロヴィチは学生時代から写真に興味を抱いており、その情熱は保護区での仕事において非常に大きな価値を発揮した。保護区で働きながら、精力的に写真を撮り続けた。当時は、写真の現像という作業は一種の謎めいたプロセスであった。セルゲイ・ミハイロヴィチは、島では入手が困難なことも多かった現像用薬品を調達し、自ら溶液を調合して、自宅で手作業によりフィルムを現像していた。夜になると、普通の部屋を本格的な暗室へと変え、赤いセーフライトの光だけを頼りに作業を行った。この趣味のおかげで、国後島の自然保護区草創期の貴重な記録が写真として残されることとなった。もっとも、残念ながらその遺産のほんの一部しか、今日まで伝わっていない。セルゲイは写真への情熱を兄のヴィクトルにも伝え、ヴィクトルもまた、ずっと後になってからカメラを手に取るようになった。

1984年後半、兵役を終えて国後島に戻ったセルゲイは、やがて人生の転機となる決断を下す。1985年12月5日、彼の職歴には「漁業協同組合『ロジナ』より転籍、チャチナ森林区(※国後島北部)の森林警備員に任命」という歴史的な記録が記された。当時、この自然保護区は設立から2年目を迎えていた。

国後島南部のオジョルヌイ管理詰所のオルシェフスキー兄弟(1990年から1991年)

人里離れた管理詰所にたどり着くには、密集した笹やぶをかき分けて進まねばならず、保護区の立ち上げには多大な重労働が伴った。当時はまだ管理詰所そのものが存在しておらず、ゼロから建設する必要があった。フィラトフカ川(留夜別川)の近くで丸太を切り出し、印を付けて解体した上で、ヘリコプターでケーブル吊りにして現地まで運搬したのである。

「テプリャキ」と呼ばれる、急ごしらえの小さな仮設小屋が、ドクチャエフ岬(ルルイ岬)やウルヴィトヴォ地区へと空輸された。場所によっては、以前から残っていたインフラもあった。例えばルードノエには、自然保護区やその緩衝地帯が設定されるずっと以前から、地質調査隊の集落が存在していた。地質学者たちがその地域に道路を建設しており、後に保護区のスタッフもそれを利用することになった。セルゲイ・ミハイロヴィチは、このルートを使って、業務用のZIL-157型トラックで科学者や学生たちを運ぶことになったのである。

「1986年5月、兄と私はウルヴィトヴォに移り、1年近くそこで暮らしました。ヘリコプターで現地に降ろされたのですが、その際、シーズンを乗り切るための食料も一緒に運ばれてきました。小麦粉や砂糖の袋、缶詰の肉が入った木箱などです……。最初はテントで生活していましたが、後に小さな仮設小屋を建てました。本格的で大きな管理詰所を自分たちで建設しようと試みたのですが、計画が中止になってしまい、資材をすべて運び出さなければなりませんでした。本当に、いろいろなことがありました。3月8日頃にヘリコプターで現地入りした時のことを覚えています。乗組員たちは私たちを降ろすと、すぐに飛び去ってしまいました。そして帰る時が来ると、私たちは徒歩で戻らなければなりませんでした。50キロ以上の道のりを歩いたのです」。

外界との唯一の連絡手段は、各拠点に設置された、大型で据え置き型の無線機だけだった。

国後島の最も辺鄙な場所「ウルヴィトヴォ」国境警備隊拠点で(1986〜1987年)

国後島の空と、夜間の30キロ踏破行

ソ連時代、「クリル自然保護区」は――他の多くの保護区と同様に――かなりの資材を自由に使うことができ、その中にはヘリコプター輸送の手配も含まれていた。セルゲイ・ミハイロヴィチは、かなりの時間を空の上で過ごした。

「ソ連時代は資金が潤沢でした。建物や野外調査拠点の建設費だけでなく、ヘリコプターの飛行時間に対する予算も割り当てられていたため、私たちはそれを存分に活用していました。私は保護部門の責任者に同行して、頻繁にヘリコプターを利用しました。当時は保護区の管理事務所のすぐ隣にヘリポートがあり、空港からヘリコプターが迎えに来てくれたものです。私たちは国後島を一周するルートで飛行し、イワノフスキー岬(ハッチャス岬)やサラトフカ川(またはサラトフスカヤ川=セオイ川)、チャティンカ川(チャチナ川=音根別川 )の上空を回りました。ヘリコプターを使って物資を届けたり、組み立て式の住居ユニットやパイプを運搬したりもしました。小クリル列島(※色丹島と歯舞群島)、特に色丹島へ向かうこともありました。ウルヴィトヴォの国境警備隊拠点へ行く際には、軍の国境警備用航空機に同乗させてもらうことさえありました。当時の人間関係は非常にシンプルで、温かみのあるものでした。例えば、国境警備隊員たちがパンを分けてくれることもありました。島にいた誰もが、『私たちは運命共同体なのだ』と理解していたのです。今日誰かを助ければ、明日にはその人が助けてくれる――そんな関係でした!」

時が経つにつれ、この自然保護区には多くの科学者が集まるようになった。クマやコウモリ、火山を研究する専門家や、湿地帯で調査を行う研究者など、多岐にわたる分野のスペシャリストたちが訪れた。また、ロシアと日本による共同調査隊をはじめとする、国際的な科学調査プロジェクトにも携わった。セルゲイ・ミハイロヴィチは常に、調査チームを人里離れた野外調査現場まで送り届ける役割を担っていたが、こうしたフィールドワークの過酷さは、時に人々の忍耐力を試すようなものだった。

「1990年頃のことでした」と、セルゲイ・ミハイロヴィチは微笑みながら振り返る。「科学者の一団と共にチャティンカから戻る途中、大型車両に同乗させてもらったのですが、乗り継ぎに失敗してしまったんです。それで、フィラトフカからユジノクリリスクまで、30キロもの道のりを歩く羽目になりました。夜通し歩き続け、6時間も足を使うことになったのです。正直、足がもげてしまうのではないかと思いましたが、倒れることなく、どうにか最後まで歩ききることができました」

GTT雪上車と運転手のセルゲイ・オルシェフスキー(右、2000年)

クマ、密猟者、そして道路事情(あるいは道路の欠如)

40年前、国後島の自然環境は今とは異なっていた。今日、観光客は島内でクマに遭遇する機会が多すぎると感じることがあるかもしれないが、セルゲイ・ミハイロヴィチの見解は少し異なる。

「当時は川に魚が溢れるほどいたので、森の中でクマやキツネを見かけることはほとんどありませんでした。彼らは皆、川のそばにいて、わざわざ他の場所へ食べ物を探しに行く必要がなかったからです。しかし、魚の数が減るにつれて、動物たちはあちこちを歩き回るようになりました。今では、根を掘ったり、ベリーを食べたり、干潮時の海岸線で食べ物を探したりしながら、島内をさまよっています。例えばセレブリャンカ川(古釜布川)には、かつてはカラフトマスやオショロコマ(現地名:クンジャ)が定期的に遡上していました。以前はワカサギも獲れたものですが、今ではもう川に入ってこなくなりました。クマやキツネは数え切れないほど見かけましたが、長年この仕事をしていて、クロテンを見かけたのは3回ほどしかありません。彼らは非常に用心深く、姿を見つけるのが難しい動物なのです」

保護区の歴史には、波乱に満ちた出来事も記録されている。セルゲイ・ミハイロヴィチは、1991年8月に起きたある事件を振り返る。当時、漁船に乗った密猟者たちが、チャチンスキー地区(国後島北部)の太平洋岸に上陸したのだ。彼らは大量の魚を捕獲し、かなりの量の魚卵を採取していたが、逃げ切ることはできなかった。ミハイル・ディハン所長と警備責任者ミハイル・ウリヤノフが率いる保護区の特別チームが、彼らを現行犯で捕らえたのである。1990年代のこうした出来事は、当時新聞で何度も取り上げられ、ドキュメンタリー映画まで制作された。

しかし、セルゲイ・ミハイロヴィチにとっての天職は、常に「運転」――それも、険しい森の道を切り拓いて進むこと――にあった。1987年4月にドライバーとしてのキャリアをスタートさせて以来、彼の人生はクリル諸島の道(あるいは道なき道)と深く結びついている。単にハンドルを握るだけではない。整備士としての経験を持つ彼は、自身が任された車両をネジ一本に至るまで熟知しており、メンテナンスや修理もすべて自分自身で行う。クリル諸島という過酷な環境では、そうする以外に選択肢はない。大自然の中や海岸沿いにおいて、頼れるのは自分自身と、愛車のエンジンの信頼性だけなのだから。

1993年、フィラトフスキー前哨基地へ戻る途上、悪路を進むZIL-157トラック

「この40年間、保護区の緩衝地帯や保護区内の道は、当時と何一つ変わっていません。すべてが昔のままです。GPSなんてものはなかったが、そもそも必要だっただろうか? 道は一本しかないのだから、ただそれに沿って進めばいいだけです。一番の難所は昔から北部の『砂地』エリアですが、南部のイワノフスキー前哨基地へ向かうルートも同じくらい厳しい。道は悪く、時には水の中をそのまま突き進まなければならないこともあります。私はこれまで、GAZ-66やZIL-157といった車で、そうしたルートを走破してきました」

セルゲイ・ミハイロヴィチは、多種多様な車両を操ってきた豊富な経験を持つ。その経歴には、UAZ-452D(愛称「オタマジャクシ」)や象徴的なGAZ-66、屈強なZIL-157(通称「コルン」)、頑丈な日産サファリ、さらには定番のUAZパトリオットやUAZ-2206(愛称「ブハンカ/パンの塊」)といった、伝説的とも言える名車たちが名を連ねている。現在、セルゲイ・ミハイロヴィチは、UAZ-3909(乗用バン)をはじめ、四輪バギー、サイド・バイ・サイド、スノーモービルといった各種全地形対応車を運用しているほか、水陸両用全地形対応車「セヴェル・トラック・ツーリスト」や、フロントエンドローダー、トラクターといった重機も扱っている。

自然保護区の42年にわたる歴史の中で、彼は建設や物資の供給、そして日々の運営に不可欠なあらゆる車両を使いこなしてきた。島内の険しく道路のない地形を移動する過酷さや、スペアパーツの調達が常に困難であるという状況下にあっても、これらの機械を運転するだけでなく、自ら修理を行うことで、常に稼働可能な状態を維持している。

保護区の中でどこが一番好きかと尋ねられると、セルゲイ・ミハイロヴィチはこう答える。国後島の南部も確かに魅力的で、人が多く住んでいる場所ではあるけれど、彼の心は常に、島の北部に惹かれているのだと。そこは野生が色濃く残り、アクセスも困難な場所だが、彼が自然保護区で働き、若き日々を過ごした思い出の地でもある。

国後島の「生きた歴史」

セルゲイ・ミハイロヴィチは、長い演説や大げさな言葉を好むような人ではない。しかし、彼の語る回想は、国後島の「生きた歴史」そのものである。彼のような人々こそが、自然保護区の活動を支える強固な土台となっている。故郷の土地に対する献身、厳しい自然環境に立ち向かう強靭さ、そして日々の静かな労働――これらがあってこそ、南クリル諸島(※北方四島)の独自の自然生態系や野生生物を、現在、そして未来へと守り伝えていくことができるのである。(クリル自然保護区ウエブサイト2026/10/13)

オフロードの王者ZIL-157。フィラトフスキー監視所への悪路を進む(1993年)

シマフクロウを調査する日本の鳥類学者グループが初めて訪れた(アンドレエフスキー監視所1988〜1989年)

UAZ(ウアズ)のバン「ブハンカ」の前で(2007年)

国後島北部を北方墓参で訪れた日本人グループを案内(2009年)

日露共同コウモリ調査の参加者たち。「サラトフスキー」監視小屋で2010年

「ルードノエ」監視小屋からの帰路。岬を越えるために海路を進む(2015年)

国後島の険しい道なき道(2015年)

春の爺爺岳(2018年)

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