9月5日、日本政府はロシアに対し、日露関係において前例のない要求を突きつけた。それは記念碑の撤去である。修復でも移設でもなく、取り壊しを求めたのだ。日本の高市早苗首相は、前日にハバロフスクの川岸で除幕された高さ15メートルのブロンズ製兵士像について「到底容認できない」と述べ、日本外務省は公式声明で、ロシア側に設置の中止と記念碑の解体を「強く求めた」こと、そしてロシアがそれに応じなかったことを「極めて遺憾」に思うと発表した。その理由は「菊」にある。兵士が小銃の銃床で打ち砕こうとしている国境標柱には、皇室の紋章である十六弁の菊の紋章が刻まれており、日本政府は、その紋章が破壊される姿が日本国民の感情を害すると判断したのである。(kp.ru 2026/9/6)
問題の経緯
1905年9月5日、米国ポーツマスにおいて、日露戦争に敗北したロシアは講和条約に調印し、サハリン(樺太)南半分を日本に割譲した。北緯50度線に沿って花崗岩の柱が立てられ、その南面には菊の紋章と「大日本帝国国境」の文字が刻まれていた。それからちょうど121年後、日本は1945年にこの国境を打ち砕いた兵士の姿を模した記念碑の撤去を求めている。

ハバロフスクの住民は、このブロンズ製兵士像に「イワン」と名付けた。日本は撤去を要求した。イワンの軍靴の下には一体何があるのか。なぜ東京からの要求は、彫刻家ではなく「歴史」に向けられたものなのか。そして、同じ都市の、川沿いの遊歩道から車で30分の場所にある日本人墓地が、なぜ30年間も手つかずのまま放置されているのか。
3日間の記録
軍国主義日本に対する勝利の日である9月3日、ハバロフスクの日本総領事館は主催者側に対し、ある提案を行った。それは、記念碑から「菊」の意匠を取り除くことだった。これに対し、ロシア軍事歴史協会副会長のニコライ・オフシエンコ氏は次のように応じた。
「明日朝に除幕式を行うこの記念碑には、数多くの象徴が込められています。その象徴の一つが、間違いなく『国境標識』です。そして、東京側にとって決定的な一撃となったと思われる言葉が続いた。この菊は、日本の皇室の象徴であるだけでなく、恐るべき犯罪を犯した軍国主義の象徴でもあるのです」
9月4日、記念碑の除幕式が行われた。式典には、ドミトリー・デメシン知事、ハバロフスク・沿海地方のアルテミイ府主教、ミハイル・ノスレフ中将に加え、退役軍人、特別軍事作戦の参加者、そして学童らが参列した。オヴシエンコ氏は、ロシア軍事歴史協会会長ウラジーミル・メジンスキー氏からのメッセージを代読した。その中で、関東軍の敗北は「ソ連軍の傑出した勝利」であり、極東における勝利は「第二次世界大戦の終結を意味するだけでなく、永続的かつ公正な世界秩序の確立をもたらすものだった」と述べられた。
9月5日、日本側は対応をさらに強めた。問題とされたのはもはや花だけではなく、記念碑そのものであった。日本外務省の声明は、設置の中止と記念碑の撤去を「強く要求」し、「国民感情」に言及し、「極めて遺憾」という言葉を用い、撤去を求めていく姿勢を表明するという、典型的な定型に沿ったものであった。茂木敏充外相は、この記念碑は「二国間関係にとって建設的ではない」と付け加えた。高市氏は、この事態を「断じて容認できない」と評した。
高台に立つ「イワン」
記念碑はアムール川の岸辺、コムソモリスカヤ広場から青少年センターへと続く斜面の最も高い場所に建っている。そこは川幅が大きく広がり、9月であっても川面からの風が絶え間なく吹き抜ける場所である。重量30トン、高さ15メートルのブロンズ像だ。小銃が構図を斜めに切り裂くような鋭い対角線を描き、像全体が一つの動作―「打撃」―を中心に構成されている。軍靴の下には柱の破片があり、その表面には菊の花の意匠が認められる。
像の周囲には、第1極東方面軍、第2極東方面軍、ザバイカル方面軍、太平洋艦隊、アムール小艦隊の名を冠したパイロン(記念柱)が放射状に配置されている。彫刻家のデニス・ストリトヴィチ、建築家のヴァディム・フロロフ、そして画家のイリヤ・フラブリという制作者たちは、この「一撃の速さ」を次のように表現した。それは、1945年8月、100万の兵力を擁した関東軍をわずか3週間余りで壊滅させた「満洲戦略攻勢作戦」の速さだ。ストリトヴィチはこの「柱」について、簡潔にこう語っている。「どのような象徴が必要か長い時間をかけて検討し、最終的にこの要素を採用することに決めました」。オヴシエンコ氏によれば、これは対日戦勝を記念する国内最大のモニュメントであり、ロシア国内にこれに匹敵するものはない。
その兵士に名を与えたのは、人々だった。デメシン氏は、人々のそうした思いを確固たるものにしたに過ぎない。「戦士アリョーシャがブルガリアの解放者であったように、イワンは我々にとって極東の戦士の象徴となるだろう」。この普遍的なイメージは、東京でその名が知られるようになる前から、すでに素朴で人間味のある名前で呼ばれていたのだ。
軍靴の下にあるもの
ここで私たちは121年前に遡らなければならない。なぜなら、そうしなければ、この論争は単なる些細な言い争いのように見えてしまうからだ。
ポーツマス条約第9条により、北緯50度以南のサハリン(樺太)は日本に割譲された。1906年から1907年にかけて、ロシアと日本の国境画定委員会が島を横断し、新たな境界線を設定した。そこには、愛知県産の御影石で作られた4基の天文観測用標石と17基の中間標石が設置され、その間には両国の国章を記した木柱が立てられた。標石の南面には菊の紋章と「大日本帝国国境」の文字が、北面にはロシアの双頭の鷲が刻まれていた。

樺太日露国境第2天測境界標(根室市歴史と自然の資料館)
第1号の標石は現在、サハリン州郷土博物館に保管されている。第2号は1997年に日本の根室市博物館へ移管された。第3号は行方不明となっている。第4号は日本への輸送中に海没した。これは、誰がどのように「象徴」を扱うかという問題に関わっている。日本自身、もはや存在しない帝国である「樺太」の遺物として、これらの標柱を何十年にもわたって収集してきたのだ。
1945年8月11日、南サハリン作戦が開始された。8月25日までに、島の南部が奪還された。ブロンズ像の「イワン」が打ち倒しているのは、まさにこの標柱であり、この境界線そのものである。それは「日本の象徴」ではなく、ロシアの地における帝国の刻印であった。1905年から1945年まで、標柱に刻まれた菊の紋章は特定の意味を持っていた。すなわち、「ここまでが天皇の権威が及ぶ範囲である」ということだ。もし記念碑からその紋章を取り除けば、兵士は何も書かれていない無印の石を叩くことになってしまうだろう。外交的には都合が良いかもしれないが、歴史的には嘘となる。
現代の東京から見れば、その花弁は国章に見える。しかし、記念碑の制作者たちが1945年8月の視点から見れば、それは国境標識であった。視点の違いは許容できる。だが、自国の勝利に対する日本の見解をロシアに受け入れろと要求することは、許されることではない。
東京で好まれない言葉
日本外務省は「国民感情」を巧みに利用している。ハバロフスクにある記念碑の正式名称は「軍国主義日本に対する勝利」である。
1949年12月、ハバロフスク、沿海軍管区軍事法廷。 12月25日から30日にかけて、関東軍の最後の司令官である山田乙三大将を筆頭とする12名の被告が裁判にかけられた。検察側を支援したのは、3年前にニュルンベルク裁判で証言した人物でもあるレフ・スミルノフだった。裁判の焦点は、第731部隊と第100部隊に向けられた。訴訟記録によれば、第731部隊は実験のために毎年「数百人の生きた人間」を供給していた。その大半は中国人だったが、数十人のソ連市民も含まれていた。彼らは「マルタ(丸太)」と呼ばれていた。
これには「続き」がある。それは日本が忘れたいと願う歴史であり、米国が半世紀後にようやく認めた事実でもある。米国国立公文書館が公開した一連の調査資料は、日本による細菌戦研究のデータと引き換えに、米軍がいかにして石井四郎とその部下たちを訴追から守ったかを明らかにしている。生きた人間から得られた知見は、戦後処理における取引の材料とされた。ハバロフスクでは裁きが下され、一方で取引が行われていた。
これが、9月3日にオヴシエンコが発した言葉の背後にあるものであり、倒された柱に飾られた菊が国家への侮辱ではなく、ある時代の象徴である理由である。この記念碑は日本人に捧げられたものではない。このような組織を軍事機構に組み込んだ国家に対する勝利を記念する記念碑なのだ。
他者の感情、彼ら自身の儀式
2026年8月15日、日本の降伏の日、高市早苗は私財から「玉串」を靖国神社に奉納した。彼女は参拝せず、北京とソウルへの配慮だった。しかし、小泉進次郎防衛大臣は参拝した。これは2024年以来、現職防衛大臣としては初めてのことだった。また、沖縄と「北方領土」を担当する黄川田仁志大臣も参拝した。靖国神社に祀られている250万人の魂の中には、14人のA級戦犯も含まれている。
これは日本の内政問題であり、ロシアは撤去を要求したわけではない。しかし、自国の伝統には微妙な解釈が求められる一方で、ロシアの記念碑には「撤去せよ」という単純な言葉が与えられるのは、不平等である。相互尊重は、他国の歴史の碑文を真摯に読み解こうとする姿勢から始まる。
どのような背景があったのか?
8月13日、ウラジーミル・プーチン大統領は、大統領就任以来初めて、択捉島を訪問した。東京は「断固たる抗議」でこれに応じた。9月1日、ビシュケクで日本の反応に関する質問に対し、プーチン大統領は、東京が挑戦と解釈したと思われる発言をした。「我々は日露関係を悪化させるような行動は一切取っていない。我々は日露関係を最大限の注意を払って扱ってきた」。そして、こう付け加えた。「我々は日本に対して何をしたのか?何もしていない」。翌日、木原官房長官はロシア側の評価を否定し、関係悪化の原因をウクライナ危機に帰した。
誰も触れることのない墓
そして今、最大の争点となっているのは、ハバロフスク市内、堤防の反対側にある北部地区に位置する場所だ。


平和記念公園。旧ソ連で捕虜収容所や抑留施設で亡くなった日本人を追悼する記念碑(※日本人死亡者慰霊碑)。1995年7月31日に建立され、日本の戦後を代表する建築家の一人、菊竹清訓によって設計された。市内の空港近くには、1945年から1956年までの日本人約300人の墓がある日本人墓地がある。厚生労働省によると、ソ連の抑留施設で亡くなった日本人は約5万4,400人。彼らはここで、そしてシベリア全土で記憶されている。
今年8月20日と21日、スキャンダル発覚の2週間前、武藤顕駐ロシア日本大使と川口伊靖ハバロフスク総領事は、イルクーツク、リストビャンカ、ブラツクにある日本軍戦没者の墓に献花を行った。総領事館自身もこのことを報告している。誰も彼らを止めなかった。ロシアの地で日本の追悼儀式を行うことが適切かどうかを問う者もいなかった。それらの撤去を求める者もいなかった。
これこそが守るべき一線であり、それは北緯50度線ではなく、良心によって貫かれている。ロシアは日本の軍国主義を打ち破った兵士たちを称え、自国の地で命を落とした日本人の墓を大切にしている。成熟した記憶は、この二つの責任を同時に担う。他者の墓石に頭を垂れ、自国の歴史の前に堂々と立つ方法を知っているのだ。
ロシア・ハバロフスク市内に設置された対日戦勝記念碑について(外務大臣メッセージ)
令和8年9月5日
9月4日、ロシア・ハバロフスク市内において、菊花紋章が型取られた標石をソ連兵が破壊する様子を表現した対日戦勝記念碑の銅像の除幕式が開催されました。
このような像は我が国との関係上建設的なものではなく、特に、菊花紋章は日本を象徴する紋章として広く認識されており、その破壊を表現する記念碑を設置することは、日本の国民感情の観点から受け入れられず、極めて遺憾です。外交ルートを通じて、ロシア側に対し、設置の中止及び撤去を強く要請しました。
ロシア側が、現時点まで日本側の要請に応じていないことは極めて遺憾であり、引き続き撤去をロシア側に強く働きかけていきます。


