サハリン州の成立80周年を控え、択捉島に地元紙『クラスヌイ・マヤーク』(「赤い灯台」)編集部は一連の特集記事を準備した。これらの記事では、同地域の発展における重要な出来事や、その黎明期に尽力した人物たちに焦点を当てている。今回は、ドミトリー・ニコラエヴィチ・クリュコフを取り上げる。(択捉島の地元紙「赤い灯台」2026/11/5)
1930年代、クリュコフは北サハリンで活動し、1945年には南サハリンおよびクリル諸島(北方四島を含む千島列島)における民政の責任者を務めた。南サハリンと(1932年10月20日に設立された)北サハリンの各地域を統合し、ハバロフスク地方から独立した新たな州を創設する動きを主導したのは、他ならぬクリュコフだった。
サハリンの郷土史家であるヴラディスラフ・ラティシェフは、クリュコフについて次のように記している。「彼は多くのことを見聞きし、この地域の歴史そのものを形作った出来事に直接関与した人物である」と。
ドミトリー・ニコラエヴィチは1899年、イヴァノヴォ州ハリトンツェヴォ村の農家に生まれた。幼少期の生活は過酷なものだった。母親は亡くなり、家業の農場も荒廃していく中、ドミトリーは10歳の頃から、家事や農作業のすべてを担うことになった。10代になると、消防署で街灯点灯係として働いたり、工場で労働者として働いたりした。1919年には赤軍に入隊し、ロシア内戦にも参加した。2年後、故郷の村に戻ったドミトリー・ニコラエヴィチは、1922年3月、5つの集落を管轄するハリトンツェヴォ村ソビエトの議長に選出された。その後、ロストフやモスクワで勤務し、1932年には共産党中央委員会によって極東へと派遣された。極東滞在中にはコムソモリスクやハバロフスクを訪れ、北サハリンで10年間働いた。1935年から1944年にかけては、サハリン初の農業試験場を率いたほか、地域土地管理局、地域計画委員会、サハリン地域執行委員会などで要職を歴任した。その後、ハバロフスク地方執行委員会の副議長も務めた。
1945年9月、全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会政治局の決定により、ドミトリー・ニコラエヴィチは南サハリン民政局長に任命され、同時に第2極東方面軍司令官であるM・プルカエフ上級大将の補佐役を命じられた。こうして、再びサハリンへと向かうこととなった……。
島に到着すると、方面軍司令部を訪れ、部隊の配置や兵站支援について協議したほか、奪還した地域における経済生活の組織化に関する諸事項について調整を行った。
最初の2日間、クリュコフは身分を隠して豊原(現在のユジノサハリンスク)の街を歩き回り、現地の住民たちの様子を観察した。
「この町は、この地域の他の12の町と同様、主に木造でできている。町中の多くの区画や狭い通りには、木組みに漆喰を塗った家々が隙間なく立ち並んでいる。一見すると立派で、石造りの建物のようにも見えるが、実際には構造が不安定で寒々しく、伝統的な丸太組みの家は一軒もない」と、クリュコフは回想録に記している。
クリュコフによれば、ブルジョワジーや政府官僚、知識階級は私邸に住み、労働者はバラックに住んでいた。町には歩道がほとんどなく、郊外や周辺の集落は不潔で悪臭が漂っていた。しかし、どの家にも中庭へと続く正式な入り口があり、その中庭は清潔で美しく、花壇や小さな池、小道が整備されていた。ドミトリー・ニコラエヴィチは、「そこは、所有者とその家族が休息するために作られた、純粋で静謐な素晴らしい小世界だった」と述べている。
回想録の中で、労働者階級の人々は粗末な服をまとい、栄養不足の状態にあったと記している。農民たちの生活も悲惨を極めていた。彼らは収穫した農作物をすべて――種子に至るまで――商社の倉庫に引き渡さなければならなかった。春になるとその種子は返却されるが、そこには保管料が上乗せされていた。さらに彼らは、工場へ牛乳や肉を供給することも義務付けられていた。町には市場やバザールはなく、食料品の自由な取引は厳しく禁じられていた。例外として認められていたのは、山菜や海藻、小魚だけだった。食料品の価格は法外に高く、一方で労働者の賃金は、1日12時間労働であるにもかかわらず、極めて低かった。
ドミトリー・ニコラエヴィチは、自ら目撃した状況をこう総括した。「我々ソビエトの人民が、このような暮らしをしてはならない。これらの町や集落はすべて、ソビエトの方式に基づいて完全に作り直さなければならない」。行政管理部門の最初の会議で党組織が設立され、1週間以内には北サハリンから人員を呼び寄せて行政機構の陣容が整えられた。各部門の責任者には、3日以内に現場へ赴き、それぞれの分野における日本の行政システムを調査することが命じられた。その後まもなく、クリュコフとその同僚たちは、民政機関の機能を規定する一連の規則を起草した。この文書は、後にアナスタス・ミコヤンによって承認された。戦線の政治部はロシア語・日本語の会話集を作成し、さらに日本語新聞『ノーヴァヤ・ジズニ(新生命)』を創刊した。これは両国民の相互理解を促進する一助となった。
「ソビエト軍が奪還したロシアの先祖伝来の地を開拓したあの数年間は、困難で激しく、そして決して忘れることのできない日々でした」――ドミトリー・ニコラエヴィチは、島々で働いた当時をそう振り返っている。
1945年末までには、この地域全域に地区レベルの民政機関が設置された。1946年7月4日、ソ連最高会議幹部会の布告により、豊原市はユジノサハリンスクと改称された。翌7月5日には14の行政地区が新設され、そのうち11地区が南サハリンに、3地区がクリル諸島に置かれた。
数ヶ月のうちに、新たな当局は島南部の産業を復興させ、新規入植者と現地住民の双方にとって適切な生活環境を整えた(これについては、今後の記事で詳しく取り上げる予定である――編集部注)。
1949年末、ドミトリー・ニコラエヴィチ・クリュコフは家族と共にサハリンを離れた。彼はソ連共産党中央委員会付属社会科学アカデミーで1年半学び、その後チュメニへ転任した。同地では、チュメニ州ソビエト執行委員会の委員長を務めた。退職後はズヴェニゴロドに移り住み、そこでも公的な活動に携わった。家族については、エヴドキヤ・クズミニチナ・ステピナと結婚し、オクチャブリナ、ヴィクトリヤ、リュドミラという3人の娘をもうけた。
ドミトリー・ニコラエヴィチは、そのキャリアを通じて14の政府勲章・賞を授与されたほか、数多くの表彰状も受け取っている。ソ連およびロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(RSFSR)の最高会議代議員に3度選出され、予算委員会の委員も務めた。
マルクス・レーニン主義研究所の「革命退役軍人部門」で活動していた際、回想録の執筆を開始した。この回想録は、日本軍国主義に対する勝利30周年を記念して捧げられたものである。彼は1985年に死去した。
サハリン州郷土博物館のスタッフは、ドミトリー・ニコラエヴィチの回想録や論考を出版するために多大な尽力をした。2012年には『1945年〜1948年 南サハリンおよびクリル諸島における民政――回想録と論考』が出版され、続いて2022年には『北サハリンでの10年間』が刊行された。
2冊目の著書には、正式な序文の代わりに、ドミトリー・ニコラエヴィチの次のような言葉が引用されている。「私は、20世紀の革命前および革命期における、数千人のサハリン住民、そして数百万人の祖国の市民という大きな集団の中の、ほんの小さな一員に過ぎない。疑いなく……」


